Maybe考察(滝沢歌舞伎ZERO2019)
ひとつ、お話を聴いてほしい。
踊ることが好きな少女がいた。
「そんなに踊りが好きならこれをあげましょう」
と、魔法使いから赤い靴を手渡された。
この靴を履くと誰よりも素晴らしく
しかも一日中踊ることができた。
少女は幸せだった。
ところが
三日三晩経っても
靴は踊ることをやめなかった。
脱ぐことすらできなくなっていた。
周りからは踊りを称賛された。
「素敵ですって?こんなに苦しいのに……。脱げるものなら脱いでしまいたい…。」
強くそう思うと、
脱げなかったはずの靴が脱げた。
脱いでしまった赤い靴。
踊れない少女。
「苦しいと言ったでしょう。この靴は他の少女にあげてしまいましょう。」
踊れなくなって初めて分かった。
赤い靴は少女の踊る心だった。
「その靴をもう一度履かせて」
「死んでしまいますよ」
「いいの。踊れない私は死ぬより辛いから」
少女はまた辛くて苦しいスポットライトの中へ戻っていく。
そして、踊る少女や少年たちの足元にライトが当たると、どの子もみんな赤い靴を履いていた。
これは『ダンシング・ゼネレーション』という漫画に出てくる「もしもシンデレラのガラスの靴が、童話『赤い靴』に出てくる靴だったら」という設定の物語だ。
2019年のMaybeを見たとき、この物語がふと頭に浮かんだ。
ラウールくんの赤い靴。
佐久間くんだけが座っていた椅子。
回り続ける舞台装置。
この漫画と関係が無いことは重々承知だが、拡大解釈として個人的に楽しんだことを書き残そうと思う。
※真実は別として、趣味の範囲で楽しんでいます。ご了承の上、楽しめる方だけお進みください。
目次はこちら
Maybeの配役
Maybeは、皆さんご存じの通り、V6兄さんの名曲だ。
この曲には様々な歴史があるが、今回はその部分には触れず、あくまでも「2019年の演出」のスポットを当てたい。(健くんが出ていないにも関わらず、歌舞伎でこの曲を披露させてもらっていることに対して色々意見があると思う。良い悪いは別として、自分は少しの申し訳なさと、膨大な感謝と尊敬の心で溢れている。)
Maybeの歌詞をザックリ要約すると
「もう人を愛せないと思っていた主人公が、やはりまた人を愛してしまう物語」だと思っている。 (異論はあると思いますが、あくまでザックリ…)
舞台に立つ際は必ず誰しも配役が与えられている。それが芝居じゃなくて歌でも、ダンスでも。 (嫁ちゃんの自論です)
Maybeだったら配役はこうじゃないか?と話していた。
あべふかは
この物語の主人公そのものの役で、芝居をするように、歌で主人公を演じている。
ちなみに実体がある役は「歌」という表現ジャンルを割り振られることが多い。
らくラウは
主人公の中にある感情の役。
ラウールくんは次の恋に前向きで、人を愛したいと願う感情の役。
佐久間くんはまだ過去に囚われた仄暗い感情の役で、人を愛すことを辞めた感情の役。
実体のない役は、コンテンポラリーダンスやモダンダンス系のジャンルで表現することも多い。
女性ダンサーさんは、時間の役。
(これは拡大解釈すぎるかも…)
「時間」と深い関わりのある『不思議の国のアリス』のような衣装に見えた。また、時計のようにぐるぐると回り続ける舞台装置に抗うことなく回され続けていた。ピタッと急に止まったり、動きだしたりと、過ぎていく時を表しているのかなぁ?と思った。
童話『赤い靴』と衣装の関係性
衣装・セットに関してはアンデルセン童話の『赤い靴』と関わりがある気がしてならなかった。
ちなみに『赤い靴』のあらすじは大体こんな感じ。
少女は赤い靴がお気に入りだった。
黒い靴を履かなくてはいけない教会にも、
お葬式にも赤い靴を履いていった。
育ての親が死ぬ間際にも
赤い靴を履いて舞踏会に出かけてしまう。
すると赤い靴に呪いがかけられ
少女の足は勝手に踊り続け
靴を脱ぐこともできなくなる。
24時間踊り続ける事が辛くなり
両足首を切断することにした。
切られた足と赤い靴は
踊りながら遠くへ去っていった。
……この後も話は続く。
だがこの先はあまりMaybeの世界観に関係していない気がするので割愛する。(気になる方は原作読んでみて!)
ラウールくんは、赤い靴を履いていた。
また、物語前半の少女のように、踊ることに対して前向きな気持ちを表すような、白くて明るい服を着ていた。
佐久間くんは、椅子に座っていた。
物語後半の少女のように、辛い気持ちを表すような黒い服を着て、椅子に座って両足を使わずに踊っていた。
偶然だとしても、よくできた演出だなぁと思った。
赤い靴は何を象徴しているのか
冒頭に引用した物語では
赤い靴は「少女の踊る心」だと書かれていた。
少し違うが「踊りを愛する心」とも言い換えられる。
Maybeの赤い靴は「人を愛する心」を象徴しているのではないかと思う。
赤い靴を脱ごうと思ってすらいないラウールくんは、「人を愛することやめる」という選択肢がない。
だから「こんなに苦しいのはなんで?どうして?」と不思議がっているように見える。
佐久間くんは赤い靴を脱いでしまった。
人を愛すことを諦めてしまった。
踊れなければ楽になると思ったのに、もっともっと苦しくて。
でも赤い靴を履くことはできなくて、人を愛することにも臆病になっている。
後半になるにつれて赤い靴が履きたくて、踊りたくて堪らなくて、人を愛したくてどうしようもないように見える。
楽曲の後半の方で
佐久間くんがもがき苦しんでいた椅子に、ラウールくんがいとも簡単に座るシーンがあった。
本来、赤い靴と椅子(両足の切断)は相容れないはずだ。
それなのに、彼には靴を脱ぐ(愛することをやめる)という選択肢が無いので、躊躇なく椅子に座ることができる。
深読みしすぎなことは重々承知なんだが
赤い靴を見せつけるように足を組んだ時は、見ていて鳥肌が立った。
実は原作の『赤い靴』には3足の赤い靴が出てくる。
色々な種類の靴が出てくるが、少女が足を切る直前に履いていたのは、高級靴店で見つけた「エナメルの赤い靴」。
2019年のラウールくんは、まだ「赤いスニーカー」を履いていた。
2020年The movieを見たとき、俺は、心底ゾッとした。
どんな靴だったか気になる方は
「滝沢歌舞伎Zero The movie」の円盤で確認してほしい。(流れるような宣伝)
ラウールくんと佐久間くん
元々2人のダンスは、Maybeの世界観とよく似ている。
(と、勝手に思う)
嫁ちゃんが言っていたことなんだが
ラウールくん自身に「踊らない」って選択肢が全く無い。
踊ることが当たり前で、やるとか、やめるとか、そういう概念が無いような感じがする。
生きることと踊ることが切り離せない人種だと思う。
佐久間くんには、恐らく「踊らない」という選択肢がある。
でも「踊りをやめることはできない」んだと思う。
佐久間くんは自己表現を模索した末に、踊りに辿り着いた人間じゃないかと思っている。
踊ることをやめると「佐久間大介」は死ぬ。
人間としては生きているが「佐久間大介」は踊らないと死んでしまう。
似ているけど、根本が全然違う。
白と黒のような。
光と闇のような。
対極でもあり、同軸でもある。
Maybeという楽曲は、色々歴史がある作品なので様々な意見があると思うが、この配役は2人にとってハマリ役だと思う。
赤い靴を脱ぐ選択肢が無い人
靴を脱いでしまった人
という構図があまりにもハマりすぎる、と個人的に思っている。
深澤くんと阿部ちゃん
少しダンスからそれるが、あべふかの配役もすごくいい。
ずっと思っていたんだが、阿部ちゃんは「演技をしてください」と言われない限り、常に阿部亮平として舞台に立っているように見える。普段のパフォーマンスを見ても、ひとりだけ何故か人間感がある。
深澤くんの世界観が素晴らしいのは言わずもがな。
(深澤辰哉は誰よりも「アイドル」だと思う - ゆきちかのメモ帳)
ただ、さくラウの感情役の世界と、深澤くんが持っている世界観って少し似ているような気がする。だから3人で演じると配役の境目が曖昧になってしまい、ぼやけて見える気がする。
深澤くんと阿部ちゃんの声が重なることで、一気に深澤くんの声が人間味を帯びて、作品の輪郭がハッキリして見える。
歌を聴きながら、そんな風に感じていた。
The movieと妄想演出
※微妙にネタバレ有り
2020年の映画版のMaybeに、佐久間くんは出演していなかった。
作品の事だけを考えると佐久間くんを使わないのも表現の一つだと思う。
3人だったからこその世界観も見せてもらったし、映画版のMaybeも、また別物として素敵な作品だったと思う。
でもファンとしては残念な気持ちもあり、安易に「佐久間くんも出ていたら…」とも考えた。しかし映画版のMaybeも、これはこれで完成されていたので、ここに佐久間くんを単純に追加するのは違うな、と思った。
これは嫁ちゃんの妄想演出なんだが
もし2020年のMaybeに佐久間くんを足すとしたら、生の楽器と、目黒くんも足して欲しい。
3人は
今まで通り「Maybeという物語」を演じてほしい。
あべふかが歌で、主人公の人間役。
ラウールくんが主人公の感情役。
そこにプラスして
阿部ちゃんにはアコギか何かを歌いながら弾いてほしい。(アコギ弾いたことあるのか分からんが…)
佐久間くんは、あべふかの声の役。
目黒くんは、アコギの音の役。
(逆の配役も見たい)
声が踊り出したらこんな感じかな。
音が目に見えたらこんな感じかな。
と、見えないものを擬人化するように演じてほしい。
めめさくはラウールくんに比べてもっと無機質で純粋な感じで踊ってほしい。
実際のお客さんは「『Maybeという物語』を演じる空間・舞台」を見ている。
その空間・舞台にたゆたうように、めめさくは物語の中の配役じゃなくて、現実世界の役を担ってほしい。
現実世界の役なのに、誰よりも抽象的な役。
難しいが、演じきれたらきっと面白い作品になると思う。
佐久間くんは人間から離れた役が似合う。
目黒くんは立ち位置的に、中々こんな役は回ってこないと思うが、是非とも経験してもらいたい。
そしてダンスで演技・表現することに病みつきになってほしい。(願望)
おしまい